知的好奇心の対象を世の中で既知か未知かで分類する

知的好奇心とは物事に興味・関心を抱きもっと知りたいという欲求のことだが、その対象により2種類に分かれるなとふと思った。

  1. 誰かが解き明かしているけど自分がまだ知らないもの
  2. まだ世の中で解き明かされていない未知のこと

1は、小学生以降の勉強のようなもの。すでに世の中では既知のことなので教科書やお手本といった答えがあるが、自分自身はまだ知らないので学ぶことで知的好奇心を満たせる。大学以降のように高度で専門的になってくるとわかる人も少なくなるので、調べたり習得できることがすごいとなる。生活の知恵とかニュースを日々追いかけるのが好きなタイプなんかも当てはまる。これが強くて得意だと学習能力が高いと言い換えもできる。学校や仕事と噛み合えば成果を出しやすいという点から成長欲求や達成欲求とも重なってくる。

2は、学問の発見のようなもの。世の中ではまだ解明されていないのでほんとうに答えがあるかもわからないようなものだが、もし真理が見つかれば知的好奇心を満たせる。教科書やお手本がないので、一次情報を観察するなり自ら調査や実験で一次情報を作成して洞察することになる。研究論文とかプロダクトの新規性にあたるものだし、一般化できなくても例えばとあるお店で客の入りと気圧が相関することを発見するようなことも当てはまる。答えがあるかわからないし時間がどれだけかかるかもわからないので、強い理解欲求や挑戦欲求が必要だ。

1の高難度のものや2について外面的な利得を求めて挑むものも多いが、即興的な成果は期待できなくなるので天才というような自然に優秀なものは内面的な知的好奇心が芯になるだろう。1と2は知的好奇心の対象を世の中で既知か未知かで分けただけなので根源は同じ欲求だと解釈している。一方で、学び方は変わるので、1が優秀でも2に詰まるものも多く、論文が書けずに中退するタイプは2の学び方がわからないのだろう。

また、1と2はグラデーションになっていて、2をするにもまずは既知のものを調査したり学習することから入る。1の高難度のものがわからないとたいてい2も難しい。1のものでもわかる人が少なくなると周りの人からしたら2と区別がつかなくなる。逆に周りの人は答えがあることを知っているが本人は知らないので2のつもりになっていることも往々にしてある。

1を一足飛びにして2をやりたがる者も少なからずいる。この一足飛びは問題を起こしがちで、既知の1を知り尽くしてからでないと未知の2をやらせない環境は多い。論文で先行研究と重なっていたら話にならないが、人生の時間は限られているので限度があると思う。よく炎上するケースが2つ思い浮かぶ。1つ目は、エンジニア起業家が書いたソースがその後に入ってきた専門家のエンジニアたちにクソコードと罵倒される光景だ。エンジニア起業家はプログラミングそのものへの関心は一定レベルで満足していて世の中に新しいプロダクトを問いかけること、つまり1を切り上げて2にフォーカスしているからと言えるかもしれない。2つ目は、問いが大きい研究家だ。クレイトン・クリステンセン、トマ・ピケティ、ユヴァル・ノア・ハラリといった人たちはこの意味で同じタイプに思える。長い時間軸の歴史を分析対象にして、大きな問いに対する真理に挑んだ学者たちだ。問いが大きいので細部の反証事例はいくらでも挙げられるので批判が簡単だ。本人たちも何本も査読論文を書いてきてそういった批判は百も承知だろうが、それでも問いに対する知的好奇心が優っているので挑むのではないだろうか。

1と2に優劣をつけるなら、1の方が社会的には適合しやすいと思う。2に比べれば充足しやすいし、テストの成績が良いとか、生活の質が高まるとか、業務のキャッチアップが早いとか、希少な職に就けるなどの実利に繋がりやすいからだ。一方で、2は成果が出るかわからないので本人も挫折しやすいし、特に学問以外の学校とか事業とか生活では周りの人も勧めづらいので、険しい道になる。私も過去を振り返って2が難しいのでしょっちゅう1で代償してきたなと振り返る。しかし、世の中で未知のことに挑戦する人たちは、本人だけでなく周りの人、場合によっては人類にとっての進歩となる資産を生み出す可能性にチャレンジしていることを思い返し誇りを持つべきだし、2をもっと支えて裾野を広げていく努力を社会全体でするべきだと思う。

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