イノベーションのジレンマの誤解を解く

クリステン教授の処女作である「イノベーションのジレンマ」は、「破壊的イノベーション」という言葉とともに、出版から25年ほど経ちたいていのビジネスパーソンなら名前だけは聞いたことあるくらいに知れ渡っているのではないだろうか。私は15年前くらいに手に取ったのだが、学士の卒業論文と重なるところもあり、非常に感銘を受けた思い出深い一冊である。当時からベストセラーだったとはいえ、さすがに真実過ぎたので単年で流れるようなことはなく、時を経るにつれリンディ効果が発揮されますます古典の位置付けを固めてきたという印象である。

イノベーションのジレンマ 増補改訂版 Harvard business school press

誤解

とはいえ、「イノベーション」という言葉も「ジレンマ」という言葉も一般名詞で馴染みのあるもののためか、本書で解き明かされている法則とはズレた解釈で語られている場面もよく目にする。例えば典型的なのは、自社内の商品同士が同じ顧客を取り合っていることを指す「カニバリ」との混同である。あるいは、たとえ事業領域が違っていても組織内の既存事業部と新規事業部の予算や待遇の争いに「ジレンマ」という言葉を宛てがったり、市場規模の観点から大企業で求められる事業水準に達していないため新興市場に参入できない構造を説明するために「ジレンマ」が宛てがわれたりとか。

ややこしいのだがこれらも間違いではない。というのも「イノベーションのジレンマ」の構成は前半は論文集だが後半は一般論に拡大したビジネス書になっている。その後半で上述のような話が一般法則としてまとめられているからだ。また、本書では「敗れる側」の大企業の視点が中心になるのだが、続編では破壊的イノベーションを起こす側の視点にたった指南書となる。そこでは上述のような問題を如何に打破するかが解説されているからだ。

しかし、1作目の本書のコアとなる、論文でモデル化されているイノベーションのジレンマとはもう少し焦点を絞ったものとなる。実はWikipediaも上述のような内容になっているため、イノジレに一家言ある身としては常々どこかで書いておこうと思っていたので今回筆を取った次第である。

イノベーションのジレンマの核心

論文のモデルでジレンマが指している対象は、多機能で高性能な製品が少機能で低性能な製品に打ち負かされることである。そして、これが起こる理由に顧客の要求水準を当てはめたのが下記のイノベーションのジレンマ図である。

引用: https://bookplus.nikkei.com/atcl/column/070600096/070600001/

多機能で高性能な製品が少機能で低性能な製品に打ち負かされる理由は、顧客の要望が少機能で低性能な製品で十分に満たされるからである。(2)の破壊的イノベーションが市場のローエンド要求に達するとキャズムを超えた市場形成が行われ、ハイエンドに達し始めた(3)の地点で市場のリーダー交代が起こる。その間も(1)は上昇し続け、多くの顧客にとっては満足する水準を遙かに超えた「過剰」品質になっていく。

(1)が決して無能な経営だから起こるわけではなく、むしろ優良な経営だからこそそのような結果に至る。そのことを前半の論文集ではハードディスクやフラッシュメモリ、添削機といった業界事例を上記チャートに当てはめながら分析している。

すぐれた経営こそが業界リーダーの座を失った最大の理由である。(中略) 顧客の意見に耳を傾け、顧客が求める製品を増産し、改良するために新技術に積極的に投資したからこそ、市場の動向を注意深く調査し、システマティックに最も収益率の高そうなイノベーションに投資配分したからこそ、リーダーの地位を失ったのだ。

イノベーションのジレンマ本文からの引用となるが、優秀だから失敗する、これこそがジレンマと名付けられた核心となる。

綺麗にイノベーションのジレンマが起こっているウェブフロントエンドの話

これは2023年現在も変わらず見られる事象である。イノベーションのジレンマの誤解を見る機会以上に常々体験していることが、フロントエンド周辺の技術群で綺麗にこの図式を踏襲していることである。ヒットすると多機能で高性能なフルスタック化に進み、見事に少機能で低性能なものへと世代交代が起こるのである。ビルド系のbrowserify→webpack→rollup/viteでもその傾向が見られるが、フレームワークが実に見事にこの法則を踏襲する。

引用: https://qiita.com/yasusun/items/02ab309c7fab4c0c65b9

今もそれなりのシェアを持っているAngularから始めると、2016年にTypeScriptネイティブで書き直した2.0がリリースされたあたりがハイエンドの要求水準に到達したタイミングだっただろう。堅牢な開発ができることとすべて純正品で丸抱えしてもらえる”easy”さが売りとなった一方で、フレームワーク独自の記法への学習コストの高さやビルドツールやライブラリに純正品以外の活用が難しく最先端のJavaScriptエコシステムへの遅れが目立つようになり、多くのユーザーが離れていった。

変わって市場リーダーになったのがviewライブラリのみの"simple"さを打ち出していたreactである。しかしジレンマ図通りに、市場リーダーの交代時点でreactもハイエンド要求水準に片足掛けていた。継続的に強化が進みcreate-react-appを代表的にAngularと似たようなフルスタックの”easy”さが当たり前の姿となっていったのである。

reactに不満なユーザーの受け皿として、react互換でありつつ当初の軽量viewライブラリに立ち戻ったpreactなどがカウンターとして登場する中、バニラHTML/JavaScriptをそのままコピペできる範囲が大きいvue2.0が"simple"のポジションを取り破壊的イノベーションとなった。日本でのポジションがreactに並び出したのが2019年くらいだったろうか。SEO/OGPに加えモバイルでの速度がフォーカスされたこともあり、SSRフレームワークを採用するところが増え、それぞれnext/nuxtという代表例を擁しているreact/vueの二強が確立した。しかし、これと並行してAngular2.0と同じくTypeScriptネイティブで書き直すvue3.0の開発が始まっていた。この答え合わせが出たのは去年今年あたりの感覚だが、vue3.0は多くのユーザーが離れる機会となっている。

変わってローエンド市場からシェアを増やし現在勢い出ているのが、いつものように"simple"なviewライブラリのみを打ち出しているsvelteとなろう。しかし、svelteもすでにsveltekitという"easy"なフルスタックを持っている。

完全自由市場だとイノベーションのジレンマが起こりやすいという仮説

ヒットすると多機能なフルスタック化に進み、 不満をもったユーザーが"simple"を売りにした少機能なものへ流れ、世代交代が起こる。なぜこんなに見事なイノベーションのジレンマがウェブフロントエンドでは起こるのだろうか?

2010年代のウェブフロントはHTML5以降JavaScript言語自身の進化が加速したこともあり、毎年「○○は死んだ」と言われるような技術変遷が激しい土俵であった。reactが定着した2010年代後半ごろにだいぶ落ち着き始め、フレームワークと同じく長らく激動を続けていたビルド関連も最適化やエコシステムを踏まえればES Moduleに切り替わった後もwebpackが当面使われるだろうとなっていたが、そのwebpackは去年開発終了になった。

私見ではこうなる理由として5つ挙げられると思う。

  1. 基盤技術の革新が続いていること
  2. webにモートが無いこと
  3. フロントエンドのスイッチングコストが低いこと
  4. プレーヤーが多いこと
  5. 費用が小さいこと

1はすでに述べているが、HTML5以降のJavaScirpt言語自身の進化のことが主になる。2については、ウェブはソフトウェアの中でも、ブラウザでソースが見られることもあり、特にオープンでフリーダムが強いと思っている。国の規制はほぼなく、2000年代のMicrosoftOracleが敷いてきたような、いわゆる「モート」も嫌厭される。OSSの文化が強く、標準化が盛んで、とくにビルドやフレームワークのようなものはほぼビジネス的な独占手法が行われていない。reactのライセンスがFacebook社全体の規則により強めのものだった時期もあるが、大きな反発が起こり現在はMITに変わっている。その上で3以降となるが、フロントエンドは永続層のデータがなくアプリケーションファイルだけになるので、比較的リプレースしやすい。また技術的にもはじめに学習する人が多く開発者の裾野も広い上にソフトウェアも比較的小さく開発コストが低いため、新しいものが生まれやすい。つまり代替手段に変えやすく、その代替手段が豊富に生まれる。それらが合わさってこのような状態を発生させていると考えている。要は、限りなく完全自由市場に近いのである。

しかしそれにしてもどうしてユーザーの満足水準に達したところで止まれないのだろうか?競争の激しいレッドオーシャンだとこれだけこのモデルが一般的になった今でも、持続的イノベーションの当事者たちは多機能/高性能化を止めることができないのだろうか?もしかしたらOSSばかりでビジネス色が薄いためユーザー数の増大などは優先事項ではないため、構造を知ったところで止めるだけの動機が無いからだろうか?それとも土俵そのものの基盤変化が起こっていることが決定的であり、これが新規開発を続ける理由となり、そのついでにユーザーの満足水準を超えた多機能/高性能化もやってしまうのだろうか?

その力学はケースバイケースかもしれないが、結果としてイノベーションのジレンマが綺麗に起こっていることは事実となっている。イノベーションのジレンマが起こるために不可欠なことは、新規参入が起こることと既存側が多機能化・高性能化を続けることだけでなく、法規制といった「強制」やブランドのような「愛好」によりユーザー選択に条件がかからず、製品そのものの「価格」と「品質」でユーザーが選択していることである。ウェブフロントにおいてはまさにこのタイプの自由市場になっていることが主な要因だと考えている。