日本語にはないインディビジュアリズム

個人主義は日本語でもよく耳にする。しかし、その対義語はなんだろうか?

論理的にひっくり返せば、集団主義やら社会主義などが導き出せる。しかし、個人主義が日常的に使われるのに反して、集団主義はそんなに耳にしない。個人と社会がよく対比されるから、社会に主義をくっつけて社会主義と出してみたが、これは理屈で作ったもので、社会主義の対義語は常識では資本主義であろう。

日本語でピンとくる対義語はあまり浮かんでこない。両者が相対化されてどっちがどうだと話し合われているのを知覚したのは、英語圏だった。

インディビジュアリズム vs コレクティビズム

今年の年頭にニューヨーク市長が「この街を"Individualism"から"Collectivism"に変える」と宣言して、特に共和党支持層の間でアメリカの伝統に反している衝撃とともに、話題になっていた。

"Individualism"は個人主義で、その対義語は"Collectivism"。日本語に翻訳すれば集団主義、そう、集団主義が個人主義の対義語になる。英語圏の、カンファレンスのパネルディスカッションのテーマで、シリコンバレーの投資家のポッドキャストで、政治経済系の本で、"Individualism"と"Collectivism"の両者が相対化されてそれぞれの美徳と弱みが話し合われている。

例えば、私がこのことを意識するきっかけになった一つの4年前のクリプトのパネルディスカッションを取り上げて生成AIにまとめてもらうと、こんな感じだ。


www.youtube.com

Individualism — この動画での「個人主義」

個人主義とは、一人ひとりがそれぞれ異なる価値観や好みを持つ存在であり、その違いと自律性を尊重することが文明の基礎になる、という考え方である。自分の人生や財産、選択について、できる限り自分自身が主導権を持つことを重視し、国家や集団からの強制には慎重な立場をとる。ただし、公共財や人々の協力そのものを否定するわけではない。それらは強制的な再分配ではなく、人々の自発的な協力から生み出されるべきだと考える。暗号資産の世界でいえば、自己主権、誰の許可も必要としない参加、中央の権力に依存しない仕組みなどが、この個人主義を具体化している。

Collectivism — この動画での「集団主義」

集団主義とは、私たちの生活の豊かさのかなりの部分が、一人では作ることのできない「みんなのもの」に支えられている、という考え方である。きれいな空気、道路や交通網、インターネット、オープンソース・ソフトウェアなどはその典型であり、社会全体で支えなければ維持できないものも多い。そこで重視されるのが、人々が協力し、社会全体にとって良いものへ資源を振り向けることである。ただし、この動画で語られる集団主義は「国家が強制すればよい」という立場ではない。むしろブロックチェーンなどを使って、個人の主権を守りながら、透明で自発的な仕組みによって公共財を支える道を探している。

この動画自体はタイトルに"transcending"(超越する)とあること、テーマの一つが"Public Goods"(公共財)になっているように、「非強制」の「共創」が最終結論になっていくが、一般的にはIndividualism=「自分を優先する」/Collectivism=「集団を優先する」となろう。

個人主義の反対は「昔の日本」?

一方で、日本語で個人主義という言葉が持ち出されているとき、明示的な場合でも暗示的な場合でも、やはり比較対象は設定されているなと思っている。それは「昔の日本」だ。

だいたいソーシャルメディアで個人主義という言葉が持ち出されるときはネガティブではないか。曰く、近ごろは個人主義が進み昔の日本の良さが消滅しつつある。今の若者はわがままで昔のような一致団結がない。会社の飲み会に若手が参加しないなど昔ではありえなかったとか、防犯のためにマンション内でも挨拶をしない状況から昔の向こう三軒両隣で支え合っていたことを懐かしむとか。あるいは、自己責任の重さを嘆き、SNSに溢れるやりたいことが見つからないとか何者かになりたいがなれないという苦しみを解消するために、自由恋愛ではなくお見合いのように、非正規ではなく昭和の終身雇用のように、もっと他者に決めてほしい、もっと選択肢を減らしてレールを敷いてほしい、と言ったような。

個人主義の引き合いに昔の日本が出されるのは、個人主義が外来の西洋思想だからまあしょうがない。つまり、日本語で個人主義の反対があんまり思い浮かばないのは、それが日本そのものという、デフォルトのものだからではないだろうか。そしてそれは、和を尊ぶとか、向こう三軒両隣とか、滅私奉公・親方日の丸のように、もっとそれぞれが太く独立した木々のように育っている。だから、あえて集団主義のような特定の名前を付けずに、代わりに日本の伝統といったアイデンティティと一体化した捉え方になる。そこにあるのは、個人主義=「過度な自己責任と孤独」/昔の日本=「社会が用意してくれる安心や絆」だろうか。

日本でも、明治維新後に夏目漱石が『私の個人主義』で自分の鉱脈を掘り当てようと「自己本位」を説いたり、近年ベストセラーになった『嫌われる勇気』が他人の期待を満たすために生きるのではない「自分軸」の人生を打ち出したり、個人主義を訴えかける言説もあるにはある。しかし、それらをいったいどれだけの人が矜持として持っているか。同じ社会の中で自分とは異なる階層・境遇の人々と交流するカズオ・イシグロが言うところの「縦の旅行」をしているときに、世代もあるかもしれないが、そういった考え方は意識高い系やYouTuberといったような一部の人たちに限定され、大方としては個人主義はネガティブの方向に紐付いているという所感が私にはある。

文化に深く根ざしたインディビジュアリズムとは

思想というものは複雑である。同じコインの表と裏のように、それを信奉している者にとってとそれを毛嫌いしている者にとっての、双方にとっての、それぞれ納得のある側面を併せ持っているものである。

私が普段、日本語で耳にする個人主義とは実質的に「利己的」と同じであることが大半だ。わがまま、損得勘定ありき、弱者切り捨ての自己責任論、孤独。これはニューヨーク市長の年始演説のように、アメリカでも同じような見方がある。

一方で、英語圏での「縦の旅行」では"Individualism"(インディビジュアリズム)が日本語では目にしないような文化レベルで浸透していると感じることが多々ある。それは、政府に頼らず個人同士が自発的に繋がるための前提、さらには、その人が自分の可能性を開花させて自身の人生を豊かにする、幸福論。だから親や会社や国といった社会が期待するレールよりも自分がどうしたいかを重視する。その培った自己信頼が、恋愛やキャリア形成の基礎となる。特に、協力や集団を否定するイメージはなく、むしろアメリカの公民の授業ではデファクトらしいトクヴィルの『アメリカの民主政』で語られているように、すべての個人が重視され互いに尊重しあい、自発的に、積極的に、人と繋がっていく。つまり、ここでいうインディビジュアリズムとは、他者を道具にする利己主義ではなく、まず自己信頼を確立したうえで他者と対等に関係を結ぶための成熟のステップである。

誤解されないように言っておきたいが、先に挙げたような思想系の話題でもなければ、"Individualism"(インディビジュアリズム)という言葉を目にすることは私はそこまでない。たぶん日本語で集団主義が当たり前すぎてもっと個々の要素で語られているように、米英を始めとした英語圏でインディビジュアリズムはやはりもっと個々の要素に溶けており敢えて言明することは日常でそんなにないのではないだろうか。

その社会通念の差を探るために、教育でどうなっているか、倫理の教科書を見比べてみよう。なお、日本と教育制度がぜんぜん違うため、米国は大学初級者向けで高校生も倫理学を学ぶ際に使われる教材になっている。

日本の高校向け倫理の教科書の目次
https://www.shimizushoin.co.jp/info_kyo/rinri/index.html

「高等学校 新倫理」

米国の高校倫理クラスでも使われる入門倫理教科書の目次
https://faculty.cengage.com/works/9780357798539

"Ethics: Theory and Contemporary Issues"

日本の教科書では、明治維新後に西洋から「個人主義」が輸入され、伝統的価値観と衝突した過程が順を追って説明されている。一方で、米国の教科書では、"4. Egoism, Altruism, and the Social Contract"が日本の明治維新後の価値観衝突と似たようなトピックになっている。"Egoism"は「利己主義」であり、私が日常で感じる日本語の個人主義とほぼ同じである。

"6. Deontological Ethics"や"7. Natural Law and Human Rights"は、私が考えるインディビジュアリズムの核になっている。

6はカントの義務論で、他者が決めたルールや己の本能のままに従う「他律」より、人類普遍の道徳を標榜して自らの理性により建てたルールに従う「自律」こそが真の道徳であると説くもの。人類普遍の道徳を導くところが矜持であり、自己も他者もたんなる手段や道具として利用せず、存在すること自体が目的である人間として、自他を尊重し合うように説いている。「私は自分自身で考え、自分自身の理性によって判断する道徳的主体である」という近代的個人主義の核心があり、「自己立法」というようなもの。東洋では孔子の儒教の教えが近しい感覚もあるが、自己と他者の重みが逆ではないだろうか。

7は自然法で、時代や国、社会の仕組みを超えて、あらゆる人間にとって普遍的・永続的に正当であるとされる不文の法のことである。「人は生まれながらに自由があり、国家はそれを守るために存在する従属的なものである」という考え方の基礎になっているものだ。日本では福沢諭吉の「天は人の上に人を作らず人の下に人を作らず」が有名だが、天が自然法というもっと現実世界に寄り添ったアナロジーに変わり、憲法や法律といった実定法より上位のものとされる。人が作った憲法や法律は間違っている可能性があるからだ。これが人権に揺るぎない正当性を与えるための最後の砦となっているし、個人のほうが国や政府より上位にされる価値観の礎である。自然法は、銃の保持自由を認めるアメリカ合衆国憲法の修正第二条の思想的背景の一つにも挙げられる。正確には、自然法を前提とした上での、ジョン・ロックの社会契約論で国民が政府をキャンセルできる抵抗権(革命権)として設計されているものである。

6や7は私が思うインディビジュアリズムを支える重要な思想だが、表通りの日本語ではほぼほぼ存在しない概念ではないだろうか。例えば、夏目漱石の『私の個人主義』の最後はいかに個人主義が国家主義と対立しないものかの衝突解消に腐心しており、場合によっては国家を優先するのが当然であると言っている。教科書でも、6はまだしも、7の自然法は社会契約説や基本的人権を説明する際の背景で触れられている程度である。独立した章立てになっている米国の教科書とは大きな違いだ。

6と7に共通して感じることは、政府や王や宗教や年長者の教えといった外在するなにかの主体により提示される絶対よりも、それを内なるものとするか(=アリストテレス的)外とするか(=プラトン的)は難しいが、形而上的な真理の存在への尊重である。まるで、物体の引力原理と同じように、人体の体内環境を一定に保つ恒常性(ホメオタシス)と同じように、人の道徳といったものにも普遍的な法則があるかのよう。日本でも、教養が高い層なら西洋哲学や法学の中で学んでいることもあるだろう。しかし、街の中華屋で、バーで、いわゆるカズオ・イシグロの「縦の旅行」をしているとき、そんな話をしても異端扱いされるのがたいていではないか。

とはいえ英語圏でも、こうした哲学や法思想そのものを話すことは教養の高い層での「横の旅行」かもしれない。私が本当にインディビジュアリズムを支えていると思っているものは、もっと日常に近い。それは本章の冒頭で述べたように幸福論だ。そう、幸福論である。

自己信頼を基にして他者と親密な関係を結ぶインディビジュアリズム

ここまで学校の勉強のように筆を進めてきたが、実は私は英語圏のInstagramやTikTokの恋愛系インフルエンサーたちにもっともインディビジュアリズムとはなにかを教わったと言ってもいいところがある。

恋愛系インフルエンサーと言っても、彼らの守備範囲は広くて大きい。核になっているのが恋愛だが(もっとも熱量の高い感情を掻き立てられ人間関係の基礎になるからというだけでなく、おそらくマネタイズの面からもそうなるのだろう)、親子や学校・職場の人間関係、生活の基礎となる健康や食事や職業選択のこと、人の暮らしのあらゆる側面について「理論的に」言及してくる。私は彼らに相当する日本人が思い浮かばない。フォロワー数が千万人級のメガインフルエンサーたちが口々に発信しているのが、この世にあなたが生を授かり最高の人生にするために、どう幸せを実現するかという話だ。そのために、ベストパートナーと関係構築するために、ベストキャリアを形成していくために、心理学、とくに発達心理学をベースに持っている人が多いなと思っている。

「良い恋愛をするためには、まず自分自身との関係を良好にしなければならない」

良い相手に選ばれるために、失恋の痛みを乗り越えるときに、今まさに恋人や夫婦の仲が危機に陥っているときに、"Choose Yourself"、"Loving Yourself"といったモットーが定番になっている。初めに、Individualism=「自分を優先する」/Collectivism=「集団を優先する」と挙げた。インディビジュアリズムと重なってくるわけだが、これは相手ありきの恋愛の話であることが肝である。ほんとうに自分自身を選び、自分を愛するだけなら、おひとりさまコースだ。あくまで他者と良い関係を結ぶための基礎という順序関係がある。日本語圏で、よくまとまっているなと思ったエッセイがある。「I(英語の"私")メッセージ」を始め、発信者が英語圏の恋愛系インフルエンサーたちが言っていることをインプットにしていることは明確である。

自分が自立し、満たされていなければ、他人を健康的に愛することはできない。良い関係の中で自己がさらに育つ。相互依存とも呼ばれる、タテの関係ではなく、ヨコの関係だ。そうでなければ、その関係は依存や搾取に傾いていく。私が考えるインディビジュアリズムとは、自己信頼から出発して幸せな相互依存の親密な関係を結ぶために個の成熟を尊ぶものである。

安定した自己信頼があるからあなたは好きを育てられる。だからあなたにとって最高の相手と出会え関係を伸ばしていくことができる、人生の使命となる仕事を見い出せ没頭していける。まず自己信頼、次に他者関係。これを良く理論化しているのが、発達心理学の愛着理論や心理社会的発達理論である。幼少期に親に利己の欲求を受け止めてもらえたという安全安心を得られると、すくすくと私はケアされる価値のある存在だという自己信頼と、必要なとき他者は応えてくれるという他者信頼を形成できる。自己と他者への信頼が育っているから、10代の多感で不安定な時期にもアイデンティティを自律的に探求することができる。アイデンティティが確立できているから、20代以降にパートナーと親密な長期的関係を築いたり人生の使命となる仕事を追求していくことができる。家庭や生涯の仕事が積み上がっていっているから、40代以降に次世代となる子や後輩たちへの継承にシフトするだけの資産ができている。それぞれの段階で危機が訪れるが、前段階の発達が次の課題を支えやすくする。

安定した社会こそが一人ひとりの幸福の供給源であり、集団の成功こそが最高善となるような価値観のコレクティビズムだと、これがひっくり返る。個は、社会という織物の一本の糸になることで、集団的安心感(帰属感)を得られることから出発する。親や社会の期待といった関係性の中で、自分が貢献できる役割を見出すこととなる。まず関係性、次に自己の形成。「自分が何をしたいか」といった自我よりも「この組織や社会で、自分ができることは何か」といった利他の貢献が核になる。子育ての成功は、社会の規定の雛形によく当てはまった人間に育つこと。「私は誰の息子/娘であり、どのコミュニティの一員か」といった外在する属性にアイデンティティの基盤を置く。人間は独力で自己を形成するのではなく、家族、友人、地域、教育、文化、制度、先行世代から受け取ったものによって初めて生きられる。ゆえに幸福とは、自分だけの可能性を最大化することではなく、自分を可能にした関係や共同体を維持し、次の人へ手渡していくことでもある。関係の中で自己を移ろいゆく可変的ものとして捉える仏教や道教や、対人関係ごとに異なる自己をすべて本当の自分と捉える平野啓一郎の分人論といったものは、硬直性を柔らげるという意味においてはどちらにも有益なれど、固定的で一貫した自我の確立を幸福の前提としないことからして、コレクティビズムとより親和性の高い幸福論となろう。

自律と帰属のどちらを最高善とするか

インディビジュアリズムの総本山かのようなアメリカでも、ニューヨーク市長の年頭演説でコレクティビズムに変えると宣言されているように、倫理の教科書で利己と利他の二つの価値観の衝突が取り上げられているように、インディビジュアリズムとコレクティビズムは日本に限らず近代以降の顕著な対立概念である。

そうでありながらも、心理社会的発達理論が典型だが、両者が掛け合わさったときを成熟とする向きも多い。むしろ、両要素を兼ね備えていることこそ、実に社会的動物かつ考える葦である人間というものに対する真理があり、個と集団のどちらが先に来るか、自律と帰属のどちらを最高善としているか、が違うだけとも思う。

こういった発達段階を独自に再構成している英語圏のインフルエンサーのエッセイを取り上げてみよう。日本語圏でも翻訳されバズっていたテキストだ。

  1. 衝動的(Impulsive) — 衝動と行動の間に隔たりがない。白か黒かという極端な思考。例:幼児は怒るとすぐに叩く。感情と行動が一体化しているため。
  2. 自己防衛的(Self-Protective) — 世界は危険な場所だと捉え、身を守る術を学ぶ。例:子供が成績表を隠したり、家事について嘘をついたり、大人が聞きたがる言葉を察して言ったりするようになる。
  3. 順応的(Conformist) — 集団と自己を同一視し、その集団のルールを「現実そのもの」と感じる。例:家族や所属集団とは異なる投票行動をとる人の理由が、どうしても理解できない人。
  4. 自己認識的(Self-Aware) — 外面とは異なる内面の世界があることに気づく。例:教会に座っていて、周囲が信じていることを自分も本当に信じているのか確信が持てないことに気づくが、その感情をどう扱えばいいのかまだ分からない状態。
  5. 良心的(Conscientious) — 独自の原則を築き、それに従って自分を律する。例:慎重に検討した上で家族の宗教から離れ、自ら説明可能な個人的哲学を採用する。あるいは、適切な努力が適切な結果をもたらすと信じ、明確なマイルストーンを伴うキャリア計画を立てる。
  6. 個人主義的(Individualist) — 自分の原則が文脈によって形成されたものだと理解し、それらにあまり固執しなくなる。例:自分の政治的見解が客観的な真実よりも、育った環境に大きく左右されていることに気づく。あるいは、野心的なキャリア目標が、実は父親に認められたいという欲求に基づいていたと気づく。
  7. 戦略的(Strategist) — システムに関与している自分を自覚しつつ、そのシステムを扱う。例:組織を率いる際、自身の盲点を積極的に問い直す。あるいは、自分の視点が部分的であり、完全には見えないバイアスによって形成されていることを認識しつつ政治に関わる。
  8. 構成概念への自覚(Construct-Aware) — アイデンティティを含むあらゆる枠組みを、有用な「虚構(フィクション)」として捉える。例:精神的な信念を文字通りではなく比喩的に捉える。「地図は現実そのものではない」と理解する。「創業者」や「ソートリーダー(思想的指導者)」という役割を演じている自分を、ある種の穏やかな面白がりを持って眺める。
  9. 統合的(Unitive) — 自己と人生の間の境界が消滅する。例:仕事、休息、遊びが同じものとして感じられる。何者かになろうとする必要はなくなり、ただ「今ここ」に存在し、生じることに応じていく状態。

このエッセイそのものは、「自律」による「自己実現」が幸せの基底に据えられていることは、西洋哲学や心理学をやっている者なら、明白だろう。自分固有の可能性・才能・内的欲求を発見し、それを最大限に実現するために、膨大な理論武装をしているわけである。満ちたりた個に成熟することを最大幸福とすることは、私が考えるインディビジュアリズムの柱である。一方で、引用した発達段階の箇所では、"Individualist"は途中段階の過程に据えられているように、正直ここにインディビジュアリズムとコレクティビズムという単純な対立概念を認めることは難しい。最後が"Unitive"になっているように、自我と社会の、自律と帰属の、衝突と解消こそが、その主題と言えよう。

ゆえに、あなたが求めるものがなにか、どちらに重きを置けばあなたの人生であなたが得たい幸せが得られるのか、という相対的な話に傾いていきそうにもなるが、一方で、人が生まれ育つ社会そのものにも、自律と帰属のどちらにより重心を置くかという文化的な違いがある。

思想も複雑だが、国というものはもっと複雑である。一つでも多面的なのが思想なのに、一つの社会の中に、個人主義、集団主義、自由主義、国家主義、資本主義、宗教、地域文化など異なる原理が幾重にも重なり合い、時代や場面によって前面に出るものも変わる。ゆえに、国単位で、単純なインディビジュアリズムとコレクティビズムを比較することも実に難しい。よって、カズオ・イシグロがいう「縦の旅行」をしたときに、何が主になっているかということに着目しているのである。言い換えれば、社会の主旋律として何が鳴っているか、ということである。

自分に合う幸福の形を探すうえで、その社会の重心と自分の志向がずれていることは、思っている以上に大きな意味を持つ。社会の主旋律として何が鳴っているかを知覚することは、あなたが求めるものがなにかを探求することと同じくらい、「4.自己認識的(Self-Aware)」以降、「9.統合的(Unitive)」まで達するために、重要な要素となろう。なぜなら、自分の望みを実現するために必要なのは、自分自身を理解し律することだけではないからだ。人は他者と関係を結び、集団に帰属し、制度の上で活動する。どれだけ自律した個人であっても、その望みが実を結ぶかどうかは、相手がどういう人間であるか、自分がどのような社会や制度の上に立っているかにも左右される。

自分を知るだけでは足りない。自分が生きている土俵も知らなければならないのである。

寝室から法廷まで

2026年の今、夏目漱石の『私の個人主義』を読むと、これでは片手落ちだなあとしみじみ思う。晩年を知らずとも、すでにこの講演の中でうまくものにできていない兆候が見て取れる。

出発点にあるのは創造性の解放であり、そこから他者の個性の尊重、権力や金力に伴う責任、国家と個人の関係へと倫理的に発展していく。しかし、私がここまでインディビジュアリズムの基底として述べてきた、自己信頼を土台に、他者と親密な相互依存の関係を築き、愛し、愛されることそれ自体の喜びを謳う幸福論はそこにはない。

私が考えるインディビジュアリズムにおける成熟には二種類ある。

一つは、自立する成熟。 親・社会・集団から心理的に分離し、自分の価値観を持つこと。

もう一つは、繋がる成熟。 自立したまま孤立せず、他者と深く結びつくこと。

自立する成熟は、ロンドンで本場の批評家の呪縛を解き自己本位を見出すエピソードがまさにである。しかし、繋がる成熟は、自己の規律止まりで、その関係構築は受け身的、もっと言えば、防衛的であるとさえ感じる。つまり、ベストキャリアを形成するための個人主義論にはなっていれど、ベストパートナーと関係構築するための個人主義論は抜けているのである。彼の時代にはまだなかったものを2つ挙げられる。まさに彼と同時代に勃興した心理学、とくに20世紀後半に発展した発達心理学と、それらをベースに持っている恋愛系インフルエンサーだ。雑誌編集を巡るエピソードで、晩年のエゴとの衝突で、欠けていたものにそれらは回答する。

誤解しないでほしいが、私はとても共感しているのである。なぜなら、後半の雑誌編集を巡るトラブルのエピソードや国家主義との衝突への理論武装のくだりは、いったい本当に生きている時代が百年違うのだろうかと驚くくらいに、固有名詞を外して抽象すれば、私自身がこの日本で体験してきたことと重なるからである。それが日本の個人主義の天井である、となりそうなくらいに。

一つ難しいのは、彼自身も苦しんだように、人間関係においては自分だけでなく相手も同様のマインドセットや行動様式を持っていないと成り立たないことである。そうでないと晩年の著作で描かれたように、夫婦関係は、友人関係は、互いの未熟な面が牙を剥いて破綻するだろう。『こころ』で、他者尊重に欠ける先生の利己的な抜け駆けと、自らの欲望や弱さまで引き受けるほどの自己信頼に欠けたKとが関係を決定的に壊したように、自己信頼と他者尊重のどちらかが欠ければ、依存や搾取に傾き良い関係になれないのである。そして、それは、夫婦の寝室から、幼少のころの子育てにまで、遡るかもしれないことである。また、国家主義との衝突の度合いは、社会が培ってきた歴史的、文化的な土壌にもよる。アメリカでは、だいぶ趣きが変わる話だろう。「人は生まれながらに自由があり、国家はそれを守るために存在する従属的なものである」というものは、理論や社会通念だけでなく、法律で実装され、選挙で、法廷で争われることでもある。

夏目漱石がぶつかった個人主義の天井を突破してテイラー・スウィフトになるためには、寝室から法廷までインディビジュアリズムを支える土壌が必要かもしれない。南アフリカからイーロン・マスクがアメリカに移住したのは、日本から大谷翔平がアメリカに移住したのは、私は現在アメリカが経済的にトップであるからだけではないと思っている。アメリカが、自分固有の可能性・才能・内的欲求を発見し、それを最大限に実現することを、もっとも讃えもっとも支援する政治的土壌になっているからでもあろう。ここが経済力そのものと必ずしも同一でないことは、世界第二位の経済大国でありながら、政治・社会制度を大きく異にする中国と比較してみてもわかるだろう。このエッセイでは言及しないが、民主主義も市場経済もコモン・ローも分権も、その成り立ちはそれぞれ異なるものの、一元的な権威に判断を集中させず、複数の主体による分散した判断・選択・試行錯誤を社会の秩序形成の軸にするという点で、成熟した個を尊ぶインディビジュアリズムと深く親和しているのである。

自分が望んだことに挑戦するからこそ、大きな成長がある。心の底から欲しいと思うからこそ24時間考える、ダメなところを変えようという強い動機が生まれる。親の期待ではなく、社会が正解としているレールではなく、あなたが本当に望んでいるものは何なのか。他責ではなく自責であれというのは、このことこそだと思う。その問いに向き合い、そして、その過程を支えるために、訪れる危機に対処するために、人文学(Humanities)や心理学という、人間が人間自身について積み上げてきた知がある。

自己信頼から出発して、相互依存した親密な関係を結ぶ幸せも、自分固有の可能性・才能・内的欲求を発見し、それを最大限に実現する幸せも、個の成熟により実りをもたらす。私が見てとる、日本語の個人主義にはないインディビジュアリズムとは、「あなたがあなた自身の幸福を最大化することを祝福し個の成熟を尊ぶ文化」である。

SNSに溢れる好きが見つからないとか何者かになりたいがなれない人たちへ

このエッセイは、6年前の『自立するために役立つ本』のアップデートのつもりで書き始めた。この間にずいぶんと「私が必要としていながら知らずにいた」ものがわかり、また、自分が生まれ育った日本という国がどういう土壌なのかがわかってきた。

今読み返してしみじみ思うのが、価値観そのものは6年前から変わってないんだよなあということである。「自立は、自己中心性が強い個人主義とイコールではない」と書いてはいるものの、個人主義とインディビジュアリズムの違いはまさに本稿でアップデートしたこと。単語の使い方が変わっただけで、その考え方はほぼ同じである。もっとも難しく、もっとも厄介なのは、頭では理解できたが、実際やれないことである。刷り込みというのか、メンタルブロックというのか、あるいは英語圏で言うところの神経システムのレギュレーションなのか、そこに向き合うためにずっと追加で理論武装し続けてきたようなものかもしれない。

TwitterやNoteなどの日本語圏のSNSにはやりたいことが見つからないとか何者かになりたいがなれない人たちが溢れている。漫画やYouTuberや21世紀以降のディズニー映画といった大衆文化が大きいだろうし、おそらく『自立するために役立つ本』でも取り上げさせていただいた『嫌われる勇気』の影響も大きかろう。そうでなくても、明治維新以降浸透し続ける西洋文化が背景にあるだろう。自己実現病といった揶揄もあるが、私はあなたの直観は間違っていないと言いたい。普遍的な人間にとっての幸福の一つであるからだ。そして日本で生まれ育つということは思っている以上に文化衝突があることを指摘したい。自分軸の人生というと聞こえは良いが、それがいったいいかに体系だっているものなのかを本稿で多少なりともその実際を示したつもりだ。その根は思っているよりも幼少のころから、いや、生まれる前に遡るほど、太くて深いかもしれない。

日本で生まれ育って実現できた人はたくさんいる。しかし、なかなかその思想背景はわからないのではないか。私はシンカー(thinker)なので、理屈を知りたい、理論に興味がある。もしあなたが本当に自己実現を追いかけたいと思っているのなら、英語圏に足を踏み入れることをお勧めしたい。自分固有の可能性・才能・内的欲求を発見し、それを最大限に実現することが幸福であるという美徳は、西洋のものだからである。寝室から法廷まで、日本語に翻訳されていない「幸福」をどストレートに謳う言説が英語圏には溢れかえっている。

成功ではなく幸福としているのは意図的である。成功者の性格特性や行動を模倣することは、成功には役立つかもしれないが幸福になるかは別である。例えば、お金や名声があっても不幸せな人物の例は枚挙に遑がないが、本来の自分の欲求や特性と異なる幸福モデルのテンプレートに当てはめてしまったものだと思う。この点について、「本当のIQテストとは人生から自分が望むものを得られるかどうかだ」と言い放つ1分30秒ほどの切り抜き動画を引用する。


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この考えには二つの側面がある。一つは、自分が望むものを手に入れる方法を知っていること。もう一つは、それ以上に根本的なことで、そもそも何を望むべきなのかを知っていること。たとえば、自分には実現不可能なものを望んでいるなら、問題は、「どうやって手に入れるか」以前に、「何を望んでいるか」の選択そのものにある。そして、自分が本当は何を望んでいるのかを慎重に考えなければ、手に入れるほどの価値がない賞とか、手に入れることでかえって別の問題を生み出してしまうものに辿り着いてしまうことが、人生にはある。本稿でいうインディビジュアリズムと強くつながる。字幕や翻訳機能を使って確認して欲しいが、発言者のいう"knowing what to want in the first place"とは、「自分の欲望は本当に自分で選んだものなのか、それとも社会や他人の期待に応えるためのこと、あるいは罪悪感や模倣的欲望などから与えられたものなのか」という問いだからである。

もしこの問いになにか引っ掛かりを覚えたなら、『The Fundamentals of Ethics』という本がおもしろいと思う。引用したポッドキャストはこれがネタ元じゃないかとなるくらいに、その理論的背景がやさしい文章でまとめられているからだ。

The Fundamentals of Ethics

先述の『Ethics: Theory and Contemporary Issues』と同様に北米の大学を中心に教育制度によっては高校生も学んでいる倫理の教科書の一つらしい。初読したときはこんなことを学部1,2年生、それどころか場合によっては高校生にまで教えているんだなあというカルチャーショックがあったが、幸福とは何かということについて、社会通念の刷り込みを解除しゼロベースで、己の頭で、己の心で、見つめ直すように、問いかけてくる。

私たちには一人ひとり固有の制約がある。生まれた国、生まれた時代、持って生まれた遺伝子や神経システム、得意/苦手。育った家庭、育った社会、育ちの過程で培われた経験や価値観、発達した脳内シナプス、好き/嫌い。その自己理解の上に、自分固有の可能性・才能・内的欲求を発見し、それを最大限に実現することを幸福とする、インディビジュアリズムが花開く。

Be Your Own Life

詩学を読んでアリストテレスが生きた時代を遡及推論する

詩学 (光文社古典新訳文庫)

違和感の始まり

物語論の起源とされる本作。読み始めたときは快調だった。

悲劇と喜劇の分類は、わたしにとって初目だったが、興味深いものだった。悲劇は優れた人物を模倣し、喜劇は劣った人物を対象にしているのだという。悲劇は威厳をもって神々や人間の讃歌をするもので、喜劇は滑稽に失態を風刺するものが始まりだという。

これまで喜劇と悲劇とは、本編がシリアスかどうか、エンディングがハッピーエンドかどうか程度だったので、「新鮮だ」という感想とともに「たしかに...」と思索させられるものだった。その時点では、今まであまりそう思ってなかったがわたしは悲劇が好きだったんだなという自己発見の感覚すら起こされていた。詩学は悲劇を最高とする創作論で、ばっちりだった。

読み進めていき、悲劇の各論に入ってから徐々に頭にはてなマークが点滅するようになっていった。

わたしはソーシャルゲームを開発していたときにシナリオ作成法も学んでおり、ハリウッドの現代脚本術、いわゆる三幕構成を頭にインストールしていたので、ストーリーの重要性および有機的な因果関係、逆転や再認はすんなり呑み込めた。どちらかというと、あれらの源流が2400年も前のこんな昔にあったのかという感嘆を覚えていた。

何を言ってるのかよくわからなくなり始めたところは、憐れみと恐れ周辺である。記述されていること自体はわかる。しかし、憐れみと恐れが、観賞者が抱くもっとも強く作品の成否を決める要因に扱われることや、カタルシスになることには、違和感ばかりが浮かんでいた。

カタルシスってなに?

そもそもアリストテレスが帰納対象にした『オイディプス王』のようなザ・悲劇が、普段から好んで見るようなものではなかった。強いて詩学で取り上げられているものから挙げるなら、叙事詩に分類されているホメロスが好きそうだが、読んだことはない。なので具体作品をあまり知らずに推測が主になった。わたしは現代脚本の王道よろしく、途中で悲劇があるにせよ、最後は解決してハッピーエンドあるいはきっちり伏線回収されるものが好きだ。その解決をカタルシスと呼ぶものだと思っていた。例えば、『ドラゴンクエスト』や『ワンピース』のような、世界の謎が伏線回収対象になっているものが好きだ。『風立ちぬ』や『グッド・ウィル・ハンティング』のような、内面の成長がしっかり描かれているようなものが好きだ。

カタルシスとはなにかが詩学本編で説明されていないので他に頼ることになるが、詩学においては「観客が悲劇を観ることで憐れみと恐れの感情を呼び起こし、日常で蓄積された過剰な感情を安全に発散させ、精神を健やかな状態に整える」、それをカタルシスと呼ぶことが通説だと捉えている。つまり、憐れみと恐れを発露することそのものが本懐であり、ゆえに、憐れみや恐れの感情が発露する物語パートにカタルシスがあると解釈した。

一方で、わたしにとって憐れみや恐れが発露している段階は、まだまだストレスホルモンや緊張が蓄積されている段階である。例えば『宇宙兄弟』の宇宙飛行士選抜試験中で、時計やトイレが何者かに壊され、お互いに疑心暗鬼になって崩壊したb班の描写で、カタルシスは生まれない。グリーンカードが明かされ、六太の仲間への信頼が報われ、じゃんけんを実施し、a班に素晴らしい絆が生まれたところで、カタルシスとなる。

そこでわたしが感じているカタルシスとは、チームがうまくいったことへの安堵を伴った緊張の解放、仲間を信じ続けた六太の人格への感銘、優れた行為(解決方法)に対しての学びといったものである。しかし、詩学で最高の構成と叙述されているオイディプス王らは、幸福から不幸へ一方向に向かうバッドエンドであり、こういった類の解決パートはないと思う。上述の宇宙兄弟の場面なら、a班の描写がなくなり、b班は誰一人合格しなかった展開に変わり、溝口が自身の精神性や行為を悔恨したりケンジが人の難しさに思いを馳せるところだけを描いて終わる、哀愁漂うエンディングになるようなものではないだろうか。

三浦洋氏の翻訳版で詩学を読んでいて巻末の氏の論文に詳細なカタルシス論があったため、オイディプス王や"if"宇宙兄弟でどのようなカタルシスがあるのかも一定レベルでわかったつもりではいる。つまり、わたしにとってのカタルシスは、苦の感情から快の感情への欠乏充足モデルのもので、アリストテレスは喜劇に固有のものとしたもの。一方で、オイディプス王らのカタルシスとは、上述の憐れみと恐れを発露することそのものを本懐としたり(三浦氏論文によると治療的排出説)、負の感情への適正化を進め中庸の感情を醸成したり(倫理的教化説)、なぜそのような惨劇が起こったかが解明できて人間への理解を深める(知的解明説)ようなもの。

もっともピンとくるのは最後の知的解明説。とはいえ、頭で理解しただけ。とにもかくにもわたしは憐れみや恐れによるカタルシスが薄く、喜劇に備わるものとされるカタルシスを伴った王道大作や成長物語が好きである。読み始めたときは悲劇が好きだと思っていたのに、カタルシスのところで喜劇が好きだった。そのため、悲劇本論のところで、他者理解が主になり、自分との接続が弱かったわけである。

普遍性が合わない!

また、読んでいるときは気に留めていなかったが、既存作品を取り上げて詩学で分析するケーススタディの話し合いの中で、普遍性への解釈が違うことに大きな好奇心を抱いた。

きっかけはa班で取り上げることにした作品『K-POPデーモンハンターズ』で、他のメンバーがわたしたちと同じようなありふれた人物像、あるいは誰もがやるようなあるあるネタを「普遍性」として取り上げようとしたことにある。

K-POPデーモンハンターズは、世間では人気歌手であり裏では世界で三人しかいない悪魔退治をするハンターが主人公である。トップスターとして大勢の観衆を前に舞台で圧巻のパフォーマンスし、物語ではすべてを失った絶望の中でも不屈の魂で回復し仲間たちと力を合わせ魔王を倒すような英雄的人物だ。とはいえ、映画はポップでコミカルにも仕立て上げられていて、ゲップをしたりカップラーメンが好物だったりイケメンに目が奪われたりと、わたしたちと変わらない「普通の女の子」の描写もそこかしこに挿入される。

この後者の普通の女の子の描写を普遍性としてピックアップすることがわたしには意外すぎて戸惑ってしまった。なぜなら主と従をひっくり返しているからだ。それらの描写は、ただたんにトップスターかつハンターである英雄的人物像のキャラデザインだけだと、近寄りがたく鼻につくキャラになったり、雲の上の存在で視聴者が共感を持つ余白がないため、いわば演出テクニックで挿入されているものだと捉えていた。これは魔王を倒す勇者の物語であり、あくまで主は英雄的人物像だ、と。詩学にも「普遍的とはこのタイプの人物ならこのような行動するだろうということがもっともな展開で起こることを指す」と書かれているように。しかし、たしかに普遍性という一般的な言葉の意味に立ち返れば、そのような焦点の当て方でも合っているよなと思ったわけである。視聴者の共感を呼ぶためとか製作者サイドのロジックを知っているかとかを超えて、無視できないなにかの引っ掛かりを覚えた。

もし、K-POPデーモンハンターズが日常系の1話完結の話だったなら、わたしも普通の女の子像をピックアップすることにうなずいたと思う。しかし、それでも、そこに普遍性という言葉を用いることにはなぜかやはり違和感がある。どうやらわたしは「普遍性」という言葉に仰々しいというか荘厳な意味づけをしていたようだ。言語ごとの翻訳摩擦があるにせよ、普遍と言うときはたいてい、時代を超えた真理とか、たとえ今はそうでなくても本来あるべき姿といったニュアンスを背後に抱いていた。英語の"universals"がもっとその感覚に近い。人間に用いるときは道徳や倫理に近く、どんな人でもやるようなあるあるネタに、わざわざ普遍性という言葉を用いない。それなら「普通」とか「当たり前」とかを選ぶものだった。

普遍性から創作論へ—アリストテレスが生きた時代を遡及推論する

わたしはいわゆる性格類型診断系で哲学者タイプと分類されがちだが、そのわりに哲学そのものには造詣がない。これまで読んだことがあると記憶しているのは、『ソクラテスの弁明』の漫画版と、セネカの『生の短さについて』くらいだ。アリストテレスは詩学で今回初めて読んだし、プラトンは他者がする引用で目にしていた程度である。ギリシャ哲学なら三大哲人よりソフィストが近そうと感じていたが、まったく言い張れない、ふわっとしたものだ。というか哲学というものは現代においては、内向性は倫理や心理学へ、外向性は科学へ、ある意味発展散開していると考えていて、わたしが親しんできたのは心理学や〇〇+哲学(例えば政治哲学や技術倫理)といった応用哲学である。純粋哲学は、今回の詩学と班活動により扉が開いたようなものだ。当然ながらこの普遍論についても現時点はまだまだ無知のためこの辺で留めておきたい気持ちがやまやまだが、この一ヶ月即席で調べてきた中では、人間に適用するときどうもわたしはプラトンに近い考え方を持っているようだと自己発見の感覚がある。いや、本当にめちゃくちゃ難しいなと思っているのだが、とにもかくにもこの文章で現時点の考えを記録しておく。

アリストテレスのいう普遍とは「実在するあらゆる事物にすべからく適用できること」を指すと捉えている。ややこしいのが、自然科学ならその通りだと思うことである。一方で、人間に対して当てはめるときに、「すべての人間は空気を吸う」くらいならまだ自然科学の延長で良いが、「村八分にされるのが嫌だからいじめに加担する」のような凡庸な行為をわざわざ普遍として取り上げるか?と思うのである。書いていて少々暑苦しいなと我ながら思うものだが、ソクラテスの「善く生きる」に近い倫理道徳的なものだ。ややこしいのが、けっきょくアリストテレスもエネルゲイアを人間に適用したものとして徳(アレテー)や幸福(エウダイモニア)という似たような概念を提示していることであるが、プラトンの洞窟の例え話、そしてイデア論に沿った善のイデア、正義のイデアといったものが、人間やその集合体となる社会に普遍性という言葉を用いるときの、わたしの普遍観によりフィットする。アリストテレスは記述的普遍で、プラトンは規範的普遍というところだろうか。

この普遍観を個別作品でもう少し具体的に述べると、K-POPデーモンハンターズなら、「ありのままの自分への葛藤と受容」、「主人公が仲間と支え合いファンの応援を力に変えて悪に立ち向かう姿」といったあたりが、普遍性と取り上げる価値があると思う。さらに、b班が取り上げていた『チ。』の方がしっくりくる。なぜなら、チ。が描く普遍性とは、「権力や恐怖に屈することなく自らの理性と好奇心に従って真理を希求し続ける人間の尊厳」、「個人は死んでも未来へ受け継がれる希望」といったものだと思っていて、多くの人にはとうていできないものだからだ。あらゆる人に当てはまるとは言えない、しかし、人が大切にすべきで在りうるべき普遍的な価値であり、真実在/イデアとして捉えられるものであり、それが人間の生において実現された状態をアリストテレスはエネルゲイアと呼ぶのだと思っている。ワンピースならルフィが「”生きたい”と言えェ!」と言うようなところ、宇宙兄弟なら六太がじゃんけんを提案するようなところである。少々大げさなことは承知の上だが、もしワンピースや宇宙兄弟が古代ギリシャにあったなら、プラトンも詩人追放論を取り下げていたのではないかという直観すら浮かんでいる。

とはいえ、ややこしいのが、プラトンの詩人追放論に対してアリストテレスが詩学の悲劇論によって反論していることは、悲劇がいわば真実在/イデアに照らして歪んだ現実(エネルゲイアの欠如)を描くことで本来の在り方を反面教師的に示すという意味で、詩もプラトンのいう普遍性を持てるのだという主張にも解釈できそうなことである。村八分にされるのが嫌だからいじめに加担して起こった惨状を悲劇で描くことにより、逆説的にソクラテスの弁明と同じような「たとえ村八分にされても真実を追求する」という真実在/イデア/エネルゲイアを浮き彫りにするのである。詩人追放論に則せば、「自然本性から離れた第三のものを生みだす"模倣者"」ではなく、「第二の現実世界のコピーを生み出す者」、いやむしろ第一のイデアを述べた言論になり得るもの。だから、詩にもしっかり価値があるよ、という弁護を思い付くのである。

もちろん、反面教師から真実在/イデア/エネルゲイアを浮き彫りにするというのはトリッキーだ。正面から述べているものがあればもっとふさわしいだろう。アリストテレスが生きた時代にはそのような文芸作品はほんとうになかったのか?

わたしは創作論なら同じく神話からの抽象ながらプラトンやアリストテレスが生きた時から二千年後の19世紀に発見されたヒーローズジャーニーが好みである。今回、その一つの理由が真実在/イデア/エネルゲイアを真っ直ぐに取り扱いやすいフォーマットだからという気づきがあった。三浦氏の論文によると、古代ギリシャの作品で現存しているのは悲劇37編、喜劇17編程度だという。現代からすると物語のバリエーションの少なさは想像するに難くない。その中にはヒーローズジャーニーの原型の一つとなったホメロスの叙事詩も含まれている。アリストテレスは叙事詩は悲劇に包含されるものとしたが、もしホメロスの叙事詩が真実在/イデア/エネルゲイアを正面から浮き彫りにしているものなら、その集合関係は逆ではないだろうか?あるいは、やはり、アリストテレスが参照できた文芸作品は、人間の悪意や弱さや正義の違いなどで起こる惨劇から真実在/イデア/エネルゲイアを逆説的に導出するものだけであり、現代に多数存在している、ソクラテスの弁明のようにたとえ村八分にされても真実を追求する、真実在/イデア/エネルゲイアを高らかに謳い挙げているような文芸作品はまだなかったのだろうか?20世紀には『肩をすくめるアトラス』が生まれている。その終盤では物語の中心人物がラジオで延々と演説を行う。著者にとっての善のイデアや正義のイデア、あるいは徳(アレテー)や幸福(エウダイモニア)を高らかに謳い挙げているところだ。しかし、まだ小説の原型となるギリシャ・ロマンスすら無かった当時ではそのような作品は無かったと考えたほうが無難そうだ。西洋の古典では聖書もそのようなものだと理解しているが、あれを文芸作品という勇気をわたしは持てないし、新約聖書ならどのみちプラトンやアリストテレスが生きていた時代には無かったわけである。

アリストテレスが悲劇を最高とした理由は帰納した作品の種類が少なかったからだという仮説が浮かんでならない。

自己完結

わたしの詩学への違和感は以下のように自己完結しつつある。

  • どうやらわたしは憐れみや恐れをあまり見る動機にしていない
  • どうやらわたしの普遍観はプラトン寄りっぽい(ここは本当に難しくまだまだ無知である)
  • どうやらわたしは詩学の分類では叙事詩がもっとも好みである。というより、同じく神話からの抽象ながら19世紀以降に発見されたヒーローズジャーニーが好みである。

ホラー映画が昔から苦手だ。でも好きな人とはたくさん出会ってきて、なぜ好きかを何度も聴いて、頭ではおもしろさを理解している。詩学の悲劇論もそのようなものである。アリストテレスが叙事詩を悲劇に包含しているように一部はわたしの好きに重なりつつも主としては「自分は好きではないものを好きな人たちがなぜそれらを好きなのか」を理解するものだった。

詩学は唯一解ではない、しかし特定解への真理が詰まっている、というのがわたしの結論である。なお、普遍論についても、自然科学なら唯一解があるが、人間においては複数の一般解があるというのが、わたしの予めのファイナルアンサーであることも付記しておく。

イノベーションのジレンマの誤解を解く

クリステン教授の処女作である「イノベーションのジレンマ」は、「破壊的イノベーション」という言葉とともに、出版から25年ほど経ちたいていのビジネスパーソンなら名前だけは聞いたことあるくらいに知れ渡っているのではないだろうか。私は15年前くらいに手に取ったのだが、学士の卒業論文と重なるところもあり、非常に感銘を受けた思い出深い一冊である。当時からベストセラーだったとはいえ、さすがに真実過ぎたので単年で流れるようなことはなく、時を経るにつれリンディ効果が発揮されますます古典の位置付けを固めてきたという印象である。

イノベーションのジレンマ 増補改訂版 Harvard business school press

誤解

とはいえ、「イノベーション」という言葉も「ジレンマ」という言葉も一般名詞で馴染みのあるもののためか、本書で解き明かされている法則とはズレた解釈で語られている場面もよく目にする。例えば典型的なのは、自社内の商品同士が同じ顧客を取り合っていることを指す「カニバリ」との混同である。あるいは、たとえ事業領域が違っていても組織内の既存事業部と新規事業部の予算や待遇の争いに「ジレンマ」という言葉を宛てがったり、市場規模の観点から大企業で求められる事業水準に達していないため新興市場に参入できない構造を説明するために「ジレンマ」が宛てがわれたりとか。

ややこしいのだがこれらも間違いではない。というのも「イノベーションのジレンマ」の構成は前半は論文集だが後半は一般論に拡大したビジネス書になっている。その後半で上述のような話が一般法則としてまとめられているからだ。また、本書では「敗れる側」の大企業の視点が中心になるのだが、続編では破壊的イノベーションを起こす側の視点にたった指南書となる。そこでは上述のような問題を如何に打破するかが解説されているからだ。

しかし、1作目の本書のコアとなる、論文でモデル化されているイノベーションのジレンマとはもう少し焦点を絞ったものとなる。実はWikipediaも上述のような内容になっているため、イノジレに一家言ある身としては常々どこかで書いておこうと思っていたので今回筆を取った次第である。

イノベーションのジレンマの核心

論文のモデルでジレンマが指している対象は、多機能で高性能な製品が少機能で低性能な製品に打ち負かされることである。そして、これが起こる理由に顧客の要求水準を当てはめたのが下記のイノベーションのジレンマ図である。

引用: https://bookplus.nikkei.com/atcl/column/070600096/070600001/

多機能で高性能な製品が少機能で低性能な製品に打ち負かされる理由は、顧客の要望が少機能で低性能な製品で十分に満たされるからである。(2)の破壊的イノベーションが市場のローエンド要求に達するとキャズムを超えた市場形成が行われ、ハイエンドに達し始めた(3)の地点で市場のリーダー交代が起こる。その間も(1)は上昇し続け、多くの顧客にとっては満足する水準を遙かに超えた「過剰」品質になっていく。

(1)が決して無能な経営だから起こるわけではなく、むしろ優良な経営だからこそそのような結果に至る。そのことを前半の論文集ではハードディスクやフラッシュメモリ、添削機といった業界事例を上記チャートに当てはめながら分析している。

すぐれた経営こそが業界リーダーの座を失った最大の理由である。(中略) 顧客の意見に耳を傾け、顧客が求める製品を増産し、改良するために新技術に積極的に投資したからこそ、市場の動向を注意深く調査し、システマティックに最も収益率の高そうなイノベーションに投資配分したからこそ、リーダーの地位を失ったのだ。

イノベーションのジレンマ本文からの引用となるが、優秀だから失敗する、これこそがジレンマと名付けられた核心となる。

綺麗にイノベーションのジレンマが起こっているウェブフロントエンドの話

これは2023年現在も変わらず見られる事象である。イノベーションのジレンマの誤解を見る機会以上に常々体験していることが、フロントエンド周辺の技術群で綺麗にこの図式を踏襲していることである。ヒットすると多機能で高性能なフルスタック化に進み、見事に少機能で低性能なものへと世代交代が起こるのである。ビルド系のbrowserify→webpack→rollup/viteでもその傾向が見られるが、フレームワークが実に見事にこの法則を踏襲する。

引用: https://qiita.com/yasusun/items/02ab309c7fab4c0c65b9

今もそれなりのシェアを持っているAngularから始めると、2016年にTypeScriptネイティブで書き直した2.0がリリースされたあたりがハイエンドの要求水準に到達したタイミングだっただろう。堅牢な開発ができることとすべて純正品で丸抱えしてもらえる”easy”さが売りとなった一方で、フレームワーク独自の記法への学習コストの高さやビルドツールやライブラリに純正品以外の活用が難しく最先端のJavaScriptエコシステムへの遅れが目立つようになり、多くのユーザーが離れていった。

変わって市場リーダーになったのがviewライブラリのみの"simple"さを打ち出していたreactである。しかしジレンマ図通りに、市場リーダーの交代時点でreactもハイエンド要求水準に片足掛けていた。継続的に強化が進みcreate-react-appを代表的にAngularと似たようなフルスタックの”easy”さが当たり前の姿となっていったのである。

reactに不満なユーザーの受け皿として、react互換でありつつ当初の軽量viewライブラリに立ち戻ったpreactなどがカウンターとして登場する中、バニラHTML/JavaScriptをそのままコピペできる範囲が大きいvue2.0が"simple"のポジションを取り破壊的イノベーションとなった。日本でのポジションがreactに並び出したのが2019年くらいだったろうか。SEO/OGPに加えモバイルでの速度がフォーカスされたこともあり、SSRフレームワークを採用するところが増え、それぞれnext/nuxtという代表例を擁しているreact/vueの二強が確立した。しかし、これと並行してAngular2.0と同じくTypeScriptネイティブで書き直すvue3.0の開発が始まっていた。この答え合わせが出たのは去年今年あたりの感覚だが、vue3.0は多くのユーザーが離れる機会となっている。

変わってローエンド市場からシェアを増やし現在勢い出ているのが、いつものように"simple"なviewライブラリのみを打ち出しているsvelteとなろう。しかし、svelteもすでにsveltekitという"easy"なフルスタックを持っている。

完全自由市場だとイノベーションのジレンマが起こりやすいという仮説

ヒットすると多機能なフルスタック化に進み、 不満をもったユーザーが"simple"を売りにした少機能なものへ流れ、世代交代が起こる。なぜこんなに見事なイノベーションのジレンマがウェブフロントエンドでは起こるのだろうか?

2010年代のウェブフロントはHTML5以降JavaScript言語自身の進化が加速したこともあり、毎年「○○は死んだ」と言われるような技術変遷が激しい土俵であった。reactが定着した2010年代後半ごろにだいぶ落ち着き始め、フレームワークと同じく長らく激動を続けていたビルド関連も最適化やエコシステムを踏まえればES Moduleに切り替わった後もwebpackが当面使われるだろうとなっていたが、そのwebpackは去年開発終了になった。

私見ではこうなる理由として5つ挙げられると思う。

  1. 基盤技術の革新が続いていること
  2. webにモートが無いこと
  3. フロントエンドのスイッチングコストが低いこと
  4. プレーヤーが多いこと
  5. 費用が小さいこと

1はすでに述べているが、HTML5以降のJavaScirpt言語自身の進化のことが主になる。2については、ウェブはソフトウェアの中でも、ブラウザでソースが見られることもあり、特にオープンでフリーダムが強いと思っている。国の規制はほぼなく、2000年代のMicrosoftやOracleが敷いてきたような、いわゆる「モート」も嫌厭される。OSSの文化が強く、標準化が盛んで、とくにビルドやフレームワークのようなものはほぼビジネス的な独占手法が行われていない。reactのライセンスがFacebook社全体の規則により強めのものだった時期もあるが、大きな反発が起こり現在はMITに変わっている。その上で3以降となるが、フロントエンドは永続層のデータがなくアプリケーションファイルだけになるので、比較的リプレースしやすい。また技術的にもはじめに学習する人が多く開発者の裾野も広い上にソフトウェアも比較的小さく開発コストが低いため、新しいものが生まれやすい。つまり代替手段に変えやすく、その代替手段が豊富に生まれる。それらが合わさってこのような状態を発生させていると考えている。要は、限りなく完全自由市場に近いのである。

しかしそれにしてもどうしてユーザーの満足水準に達したところで止まれないのだろうか?競争の激しいレッドオーシャンだとこれだけこのモデルが一般的になった今でも、持続的イノベーションの当事者たちは多機能/高性能化を止めることができないのだろうか?もしかしたらOSSばかりでビジネス色が薄いためユーザー数の増大などは優先事項ではないため、構造を知ったところで止めるだけの動機が無いからだろうか?それとも土俵そのものの基盤変化が起こっていることが決定的であり、これが新規開発を続ける理由となり、そのついでにユーザーの満足水準を超えた多機能/高性能化もやってしまうのだろうか?

その力学はケースバイケースかもしれないが、結果としてイノベーションのジレンマが綺麗に起こっていることは事実となっている。イノベーションのジレンマが起こるために不可欠なことは、新規参入が起こることと既存側が多機能化・高性能化を続けることだけでなく、法規制といった「強制」やブランドのような「愛好」によりユーザー選択に条件がかからず、製品そのものの「価格」と「品質」でユーザーが選択していることである。ウェブフロントにおいてはまさにこのタイプの自由市場になっていることが主な要因だと考えている。

[魚拓] 肩をすくめるアトラス

肩をすくめるアトラス 第三部 (AはAである)

「なぜインターネットやソフトウェアではアメリカからばかり発生確率が0.1%のような傑出したイノベーションが生まれるのだろうか?」という問いを持っていた。

本ブログでも繰り返し取り上げていたが、新卒時代から長年疑問に思っていたことで、会社では上司にいいからタスク達成しろと怒られたり、社会人大学院で研究テーマにしようとして教授からもっと問いを小さくしろと指導されたりしながら、なにかの折にふれ断片を集め、それでもまだしっくりとこないところがありつつも、少しずつ理解を深めてきたのだが、ビットコイン文脈から存在を知った本書「肩をすくめるアトラス」を読んでようやく一通りの解に辿り着いた気分になった。それは本書でも記述されている「自由の国として建国されたから」といった再現性もなく定性的な上にこの国の歴史や風土に根ざした価値観にNOを突きつけるどうしようもない話になるのでここでは触れずに(修士論文のテーマにしなくてよかったです!)、電子版がなく紙の本だけだったため読みながらスマホで記録していた引用箇所を、魚拓しておく。

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[翻訳] Self Sovereign Identity, TBD, and Web5

Web5のソフトウェアにおけるビジョンや開発手法を説明する記事を翻訳しました。 developer.tbd.website

翻訳の原本はこちらに置いています。誤訳などありましたらコメントください。 https://gist.github.com/studioTeaTwo/7aead51aa7f3341eb96cc64ff87bd816

本記事はGabe Cohen氏がポストしています。いつもの(?)Daniel Buchner氏ではないですが、実にビジョナリーかつピュアなウェブ像で(個人的にはMozillaだなと思いました)、TBDのタレント揃い振りが伺えます。特に「open-by-default」モデルの徹底が印象的でした。

以下、翻訳です。


Self Sovereign Identity(SSI)とは、2016年にクリストファー・アレン氏がそれまでアイデンティティコミュニティの人々の間で話し合われていたことから着想してブログ記事「Self-Sovereign Identityへの道」で詳細をまとめた、包括的な用語です。そのブログではSelf-Sovereign Identityの10の原則が定義されています。

  1. Existence ユーザーは独立した存在でなければならない。
  2. Control ユーザーは自分のアイデンティティをコントロールできなければならない。
  3. Access ユーザーは自分のデータにアクセスできなければならない。
  4. Transparency システムやアルゴリズムは透明でなければならない。
  5. Persistence アイデンティティは永続的なものでなければならない。
  6. Portability IDに関する情報およびサービスは持ち運び可能でなければならない。
  7. Interoperability IDは可能な限り広く使用できなければならない。
  8. Consent IDを使用するときに本人が同意しなければならない。
  9. Minimalization クレームの開示は最小限にとどめなければならない。
  10. Protection ユーザーの権利は保護されなければならない。

2016年以降、いろいろなことが起こりました!SSIの原則に基づいて、カンファレンス、議論、論文、標準規格、ソフトウェア、そして技術の業界全体での採用が相次ぎました。この領域は成熟過程にあり、成長する一方です。

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知的好奇心の対象を世の中で既知か未知かで分類する

知的好奇心とは物事に興味・関心を抱きもっと知りたいという欲求のことだが、その対象により2種類に分かれるなとふと思った。

  1. 誰かが解き明かしているけど自分がまだ知らないもの
  2. まだ世の中で解き明かされていない未知のこと

1は、小学生以降の勉強のようなもの。すでに世の中では既知のことなので教科書やお手本といった答えがあるが、自分自身はまだ知らないので学ぶことで知的好奇心を満たせる。大学以降のように高度で専門的になってくるとわかる人も少なくなるので、調べたり習得できることがすごいとなる。生活の知恵とかニュースを日々追いかけるのが好きなタイプなんかも当てはまる。これが強くて得意だと学習能力が高いと言い換えもできる。学校や仕事と噛み合えば成果を出しやすいという点から成長欲求や達成欲求とも重なってくる。

2は、学問の発見のようなもの。世の中ではまだ解明されていないのでほんとうに答えがあるかもわからないようなものだが、もし真理が見つかれば知的好奇心を満たせる。教科書やお手本がないので、一次情報を観察するなり自ら調査や実験で一次情報を作成して洞察することになる。研究論文とかプロダクトの新規性にあたるものだし、一般化できなくても例えばとあるお店で客の入りと気圧が相関することを発見するようなことも当てはまる。答えがあるかわからないし時間がどれだけかかるかもわからないので、強い理解欲求や挑戦欲求が必要だ。

1の高難度のものや2について、外面的な利得を求めて挑むものも多いが、即興的な成果は期待できなくなるので天才というような自然に優秀なものは内面的な知的好奇心が芯になるだろう。1と2は知的好奇心の対象を世の中で既知か未知かで分けただけなので根源は同じ欲求だと解釈している。一方で、学び方は変わるので、1が優秀でも2に詰まるものも多く、論文が書けずに中退するタイプは2の学び方がわからないのだろう。

また、1と2はグラデーションになっていて、2をするにもまずは既知のものを調査したり学習することから入る。1の高難度のものがわからないとたいてい2も難しい。1のものでもわかる人が少なくなると周りの人からしたら2と区別がつかなくなる。逆に周りの人は答えがあることを知っているが本人は知らないので2のつもりになっていることも往々にしてある。

1を一足飛びにして2をやりたがる者も少なからずいる。この一足飛びは問題を起こしがちで、既知の1を知り尽くしてからでないと未知の2をやらせない環境は多い。論文で先行研究と重なっていたら話にならないが、人生の時間は限られているので限度があると思う。よく炎上するケースが2つ思い浮かぶ。1つ目は、エンジニア起業家が書いたソースがその後に入ってきた専門家のエンジニアたちにクソコードと罵倒される光景だ。エンジニア起業家はプログラミングそのものへの関心は一定レベルで満足していて世の中に新しいプロダクトを問いかけること、つまり1を切り上げて2にフォーカスしているからと言えるかもしれない。2つ目は、問いが大きい研究家だ。クレイトン・クリステンセン、トマ・ピケティ、ユヴァル・ノア・ハラリといった人たちはこの意味で同じタイプに思える。長い時間軸の歴史を分析対象にして、大きな問いに対する真理に挑んだ学者たちだ。問いが大きいので細部の反証事例はいくらでも挙げられるので批判が簡単だ。本人たちも何本も査読論文を書いてきてそういった批判は百も承知だろうが、それでも問いに対する知的好奇心が優っているので挑むのではないだろうか。

1と2に優劣をつけるなら、1の方が社会的には適合しやすいと思う。2に比べれば充足しやすいし、テストの成績が良いとか、生活の質が高まるとか、業務のキャッチアップが早いとか、希少な職に就けるなどの実利に繋がりやすいからだ。一方で、2は成果が出るかわからないので本人も挫折しやすいし、特に学問以外の学校とか事業とか生活では周りの人も勧めづらいので、険しい道になる。私も過去を振り返って2が難しいのでしょっちゅう1で代償してきたなと振り返る。しかし、世の中で未知のことに挑戦する人たちは、本人だけでなく周りの人、場合によっては人類にとっての進歩となる資産を生み出す可能性にチャレンジしていることを思い返し誇りを持つべきだし、2をもっと支えて裾野を広げていく努力を社会全体でするべきだと思う。

GO BOLD!

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Web5 ファーストインプレッション

もう10日以上経つが6/10の深夜に電撃的にWeb5が発表された。Twitterで「Web5」の文字やミーム画像がぞろぞろ流れ始めてきたときは冗談だと思ったが、スライド資料*1を読み進めるといったいどこで笑えばいいんだろうと困惑が大きくなる一方だったくらいに、本気の内容で驚いた。

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