「ビットコイン・スタンダード」と「財政赤字の神話」にショックを受けた話

去年事業に失敗した。原因は力不足という一言だが、去年から今年は幻想を取り今ここに向き合う期間だった。

事業の失敗とパンデミックの顕在化は同時期でありどちらが先だったかはもう忘れたが、関心はどんどん「社会」の方へ向いていった。 特に息を呑んで動向に釘付けになっていたのが、世界各国が取る政策の違いだった。中国やロシアのような国が取った強権発動はもとより、フランスでドローンが監視のために飛び、韓国が感染者のトラッキングをインターネットで公開した。 同じ「西」側でも、国の成立起源や憲法による建て付けの違いがブワッと表面化し、国家という存在が剥き出しになっていた。 「経済か、人命か」という究極の二択的な論争は、あまりに大量の変数が複雑に絡み合っている上に、その意思決定の重さ、影響の甚大さは言うも及ばずだった。

これらを目の当たりにし、自分の中で大きく価値観が変わっていった。 子どもの頃から物語や歴史や生物や音楽やゲームが好きで、これまで軽視していたというか意図的に線を引いてきた数学や経済や金融、そして政治といったものの意味がようやく肌身で実感しその重要性がわかった(まじで人生で初めてという感じ)。 また、疫病で自分自身も含め身近な人たちが続々と死亡する未来も見える中で幸福の意味も考え直し、流行り出したウェル・ビーイングからもたくさんの知識を得て、これまで軽視してきた自身の健康や資産や交友といったものもようやく肌身で実感しその重要性がわかった(まじで人生で初めてという感じ、パート2)。 高校数学から復習し直し、経済の本も簡単そうなものから手に取り長年疑問に思い続けていた「なぜ成長し続けないといけないのか?」についても答えがわかり、生活習慣のチェンジもいろいろ試し始め、これまで無頓着だった個人の資産についても一から構築し直した。 そうやって過ごしていたなか、ちょうど一年前の今ごろから始まったクリプトバブル(開始時期は諸説ある)では、バブルがどのように起こるかの内幕が透けて見えるかのようなものだった。

パンデミックやクリプトバブルで世の中ってこういう仕組みだったんだということを思い知ったが、世の中は広いというか複雑というか最近二冊の本を読み、またこれまでの自分の常識が吹っ飛ぶ衝撃を受けたので簡単にまとめてみたい。二冊の本とは「ビットコイン・スタンダード」と「財政赤字の神話」で、どちらも最近日本語訳が出ている。

余計なことを言うようだが、経済や金融の分野は本当にこれまで無頓着だったので、読む前は、ビットコインマキシマリストが言っていることは論理的・科学的ではないという意味で新興宗教の信者のように見えていたし、貨幣創造や信用創造の意味もよくわかっていなかった。

ビットコイン・スタンダード」

ビットコイナーたちがなぜ貨幣の発行上限が定まっていることを絶対視するのか、個人で資産を持つことを根底の価値観としているかが、経済や金融の構造からその言い分を理解できる。なお、タイトルから受ける印象に反してビットコインの話は全10章のうち最後の3章だけで、初めから後半まで貨幣や経済・金融の話である。

衝撃的だったのは以下の点。「原因」と「結果」が逆転している。

  • バブルや恐慌が起こるのは金本位制を辞めて貨幣創造をするから。
  • 失業やインフレが起こるのも貨幣創造をするから。
  • 貨幣創造するから、銀行預金の(額面ではなく物価調整後の)価値が減り長年の労働の貯蓄が報われない。
  • 20世紀になって戦争が増え長期化して紛争犠牲者が桁違いに増えた理由も、兵器の発展だけでなくそれを支える貨幣創造をするようになったこと。
  • 各国ごとの金利政策や為替レートが必要になるのも金本位制を辞めて貨幣創造をするようになったから。

なぜそうなるかはぜひ本書を手に取って欲しいが、私の所感を一言でまとめると「貨幣創造は全ての要因が"変数"になるのでコントロールが難しい」だろうか。

では、貨幣創造をやめるとどうなるかも大変考えさせられるものだった。貯金が熱心に行われ競争より調和が尊ばれる世界観は昭和の日本の風景を思い出させられる。それ以上に強く想起したのは、トマ・ピケティが「21世紀の資本」で立証していたr > gが、貨幣創造をやめたことでr < gに逆転した世界観だった。しかし、今読み返していると銀行預金の預入期間と投資期間が一致するといったような話からしてr = gの世界と考える方が合っているのかもしれない。

  • 人類史上もっとも経済が安定していた時期は、完全な金本位制で世界が動いていた19世紀である。
  • バブルや金融危機もなく、貿易もシンプルな構造で、富の生産や商取引を安定して積み重ねることができた。
  • 貨幣創造をしなくても投資(≒信用創造)はできる。数が限られているので投資先を吟味することになり、誤投資や詐欺が減り社会の資本ストックを増やすものに投資が集まる。
  • 貨幣の供給が一定で貨幣創造をしなければ、資産は目減りせずに時間の経過に伴い(額面ではなく物価調整後の)価値が増え続ける。
  • 資産が目減りしないなら貯蓄するメリットも増え、近視眼的で享楽的な消費が減る。
  • 現在よりも将来を重んじ長期的な視点で経済判断を下せるようになると、利己的な行動や争いが減るしフリーランチも消える。
  • 要するに、争うよりも争いを避けた方が双方の利益最大化する社会になる。

ずらずら書き連ねたが、何に一番衝撃を受けたかというと、現代の財政や金融の仕組みの根底にあると思っていたケインズマネタリズムを完全否定するところ。 経済や金融には線を引いてきたと初めに言ったが、そうは言っても大学の取得単位には一般教養科目の「マクロ経済学」や「財政学」が並んでいる。そこではマネーサプライや公定歩合などが空気のように当然のものとして存在していて、どうやってそれらがコントロールされているかとかのメカニズムが講義されていたわけである。 そんな遠い昔ながら長年頭の片隅に常識として置かれていたものを否定されているどころか、むしろそれらがあるから金融危機や失業が起こるという「原因」と「結果」が逆転されていたのである。最近の大学がどうなのかは知らないが、教育というものの影響の強さも考えさせられる。

財政赤字の神話」

ビットコイン・スタンダード」を読んで感化させられたのだが、少し時間が経った後にふと疑問に思ったのが「では、貨幣創造を基底に置いているMMTはいったい何を根拠に主張しているんだろう?」であった。 ちょうどベストセラーになっていた「財政赤字の神話」が読みやすいという評判だったので手に取ったのだが、これがビットコイン・スタンダードで頭を右にぶん殴られたと思ったら今度は真逆の左にぶん殴られるものだった。というか、長年世間で当たり前のこととして言われていたこと、政治家や経済家の名のある人たちまでが長年語ってきたことを覆すという衝撃度の点では、こちらの方が上だと思う。「ひとたびMMTを理解すると世の中の見方がそれまでとは一変する」とは本書の中の文章だが、まさしくそんな感じ。

家計や企業のように財政を考えて、支出と収入のバランスを取る財政均衡やそのための財政緊縮はとてもわかりやすいレトリックだしこの30年はずっと言われ続けていたことだと思うが、財政は家計や企業とは決定的に前提が違うので誤りであるという。家計や企業は貨幣の「利用者」であるが、財政は貨幣の「発行者」であるからだ。

同じようにわかりやすいレトリックで、MMTがネガティブなニュアンスで嘲笑される例で「札束刷っても一円あたりの価値が下がるだけで馬鹿しか騙されない」というものがあるが、貨幣創造と課税が両輪に置かれている点を理解するところがまず一歩目だろうか。要は、発行するだけでなく回収するいわゆるmint & burn式で、人々が財やサービスを作り出す動機を捻出するために回収=税金を設計しているという話なわけである。

また、国の借金、すなわち国債コペルニクス的転回を示し、企業や国民に利息を支給するための給付金なのだという。つまり、税金や国債は財源ではなく、それぞれ税金は「生産力」を、国債は「購買力」を生み出すための仕組みだということである。

貿易赤字についても同じように、国内の民間がモノを手に入れられるという意味で、貿易相手の海外はもちろん国内の民間にとっても黒字の便益として考える見方が提示される。国債や貿易のくだりは、読んでるときにリアルにお茶を吹きそうになった。

ビットコイン・スタンダード」のところでは「貨幣創造は全ての要因が"変数"になるのでコントロールが難しい」と一言でまとめたが、MMTの主張だとコントロールが難しくなるのは、中途半端な制限がかけられるから中途半端な結果になって問題を起こす、という主張になる。文中では「天井が250センチあるのにずっと背中を丸めて歩き回る180センチの男のように経済を運営している」と比喩されている。 年金や医療保険が破綻するのは、財源がないからではなく、政府や議会が勝手に縛りをかけて税収や借金を収入源にしたバランスシートを作ろうとするからである。インフレや失業率などをモニタする適切な管理指標を定めて、mint & burnを妨害なく回せればうまくいくのだと。紙幣発行量のキャップは、財政赤字額ではなく、インフレが決める。この辺のフィージビリティが私にはわからず、MMTの評価ができなくなる。

また、MMTで忘れてはならないことは通貨主権を持った国でしか通用しないという大前提である。この点については、貿易赤字で海外も潤うという点くらいしか本書の中で考慮されているところは確認できなかった。

Accidental Moderates〜「結果的に」中庸〜

ビットコインにしろMMTにしろそれぞれ強力なアンチがいるわけだが、十分に対象を理解している上で絶対に譲れないものがある的な人たちもいるが、馬鹿にするのはけっきょくのところ概念を知らないからだけであろうと思ったりする。私は老人が保守的になりがちな理由の一つは、気力や身体の衰えだけでなく多くの物事を知っていることだと考えていて、特に一つのものごとに対して多角的な視座を身に付けるが故に、決められなくなるのだろう。去年"The Two Kinds of Moderate"というエッセイを目にした。中庸にも2つのタイプがあって、元来そういう性格であるタイプだけでなく、両極端の振り子を行き来しながら「結果的に」中庸になるタイプがいるという話なのだが、まさしくそんな感じ。

この二冊はどちらも入門書のレベル感で「なにか?」と「なぜか?」という概念をわかりやすく説明しているものだ。それぞれ具体的な方策についてはいろいろな点から反証されているし、経済学にはもっと他にもいろいろな理論があるわけで、素人だからこそディテールではなく大筋だけ見て放言できるというところかもしれないが、この二つは振り子の両端のように真逆のものだが意外と共通点も多いという感想を抱いている。 まず、どちらもケインズを否定している。これはもう核だろうと思う。どちらもGDPや経済成長率よりも、インフレや失業の問題の方を重視していて、しかも無くせると主張している。実は「ビットコインスタンダード」の中でも貨幣の供給数はそこまで重要ではなく購買力こそが重要なのだという話が出てきたりするが、「財政赤字の神話」でも重要なのは紙幣の量ではなく、財やサービスを創出する力を維持することだと言っている。購買と生産の立場は変わるがまあ実体経済の話である。つまり、実体経済の活力を第一にしていて貨幣や金融を補助的な道具に据えているわけで、その点では同じ価値観だと感じる。 また、両書とも大衆迎合的なポピュリズムへのうんざり感を何度も記述しているのだが、それぞれ「初めは賛成する人がほとんどいない、真実」という類になるのではないだろうか。真実かどうかは歴史の勝者が決めることだろうが(そして、教育で増強される)、まだまだ主流ではないとはいえそれぞれ急激に広まり社会の認知を獲得している。

もちろん根底のところで決定的な違いがあるから両者は振り子の真逆になるわけだが、その決定的な違いについてはパンデミックにおける「経済か、人命か」のような社会の構造に対する究極の二択的なアレになるので、"The Two Kinds of Moderate"に倣って今回は語らないことにする。

Accidental Moderates are people THINKing in their brains rather than FEELing in their hearts.